昭和43年3月19日 夜のご理解 (末永信太郎) №43-044
信心が育つとか、もう、育てられるとかということを申します。信心が育って行かなければならん。同時に、育てられなければならん。例えば、今晩、合楽会でございますが、合楽会の皆さんが集まって、信心の共励をなさいます。そういう、お互いに信心の共励を共に磨き合うて行こうということによって、信心が育てられて参ります。この信心が育って行くのです。それに、まあ、ここで信心の、まあ、指導という訳じゃないけれども、まあ、先輩である久富さんとか山田さん辺りが、いわゆる、あちらこちら共励会なんかにも回られる。けれども、そうして回らせて頂きながら、今度はその、合楽会なら合楽会を通して、自分自身が育てられておることに気が付く。ね。
だから、育つ、または、育てられると、こういうこと。だから、自分はどこどこに信心の話に行って、まあ、言うなら指導、指導に行ったと、お話に行ったと。というだけであったら、それは、値打ちにならん。そのことを通して、そのことの中から、自分が育てられて行っておるものを感じるから、そういう御用をさせて頂くことが有り難いのである。はあ、今晩ご苦労様でした、いいえ、こっちこそお礼を言わなきゃなりませんということになるのです。
これは、その共励といったようなことばかりじゃございません。様々な問題、難儀、そういうようなものを通してです、信心が育てられて参ります。ね。また、育って行かなければ値打ちがありません。ね。信心が育って行くということが、それは、おかげも、それは一緒に育って行っておるのと同じです。
大きなおかげを頂きたいと思って、信心が大きくならずして、大きなおかげだけを願ったって、それは、無理な話だということ。ね。今日は、久留米の三橋先生ところの春の御霊様のお祭りでございましたから、私と、若先生と、久富先生が参りました。ほれで、今日はあの、私の一番下の栄四郎が小学校の卒業式でございましたから、早かったらあちらの方へ回ってこいと言うておりましたら、私どもよりも早く、親子で行っておりました。そんな訳で、今日は親子夫婦で、まあ、あちらの御霊さんのお祭りにおかげを頂いたわけでございます。帰りの車で送ってもらっておりました。
ったら、途中から栄四郎があの、今日はあの、椛目の僕の友達たちが、あの、送別会をしてくれると言う。もう、椛目から、もう、草野小学校へ通っておりましたけども、もう終わりましたから、もう、いよいよ、大橋の下に、合楽の方になってしまわなければならん。それで、送別会をしたいて言っておるから、僕は途中で下車すると、こういうわけである。
ほえ、もう今、御霊様のお祭りの後のご直会で、もうお腹いっぱい、お前はもう、御馳走頂いて来とるけん、送別会に呼ばれたっちゃ、お前何をそげん、食べるもんもなかろう、せっかくの事にから言いましたら、栄四郎が申しますことです。それはそうだけれども、友達の好意を無にする訳にもいけんから、とこう言うてです。(笑)私はそれを聞いてから、ほんなこと、そうどこじゃないと、こう思いました。
食べる食べんじゃないのだて。友達の好意を無にしては済まんと、こう言う。本当に体が小さいから、まだ、本当に子供、いわゆる赤ちゃんのように私どもは思うとりますもんですからね、もう、ほんに中学生の服を作って、小さいで可愛らしい中学生が出けましたけれども。
もう、小学生じゃないんだ、と。もう、僕は中学生だというものを、そういう言葉の端からでも感じさせてもらうのでございます。いわゆる、育って行っておるのでございます。ですから、もう、思うておることも、言うておることも、やっぱり大人びた言い方が出来るわけです。ね。
友達の好意を無にするわけにいけんから、とこう言う。ほんに、そりゃそうどころじゃない。食べるとか食べんな問題じゃないちゅう訳です。どうでしょうか皆さん。おかげ頂くとか頂かないていうことは問題じゃないて。もう、このくらい信心が育っておったら、このくらいは思われ、このくらいは言い習わにゃいけんということなの。そういう風な意味で、お互いの信心が育っておるだろうか。
今日は県立高校の試験発表がございましたですね。お願いをさせて頂いて、一生懸命お参りをさせて頂いてから、本当にあの、出けんはずのところが、おかげで通らせて頂いたと言うてお礼参拝になった方がいくらもある。かと思うと、一生懸命おすがりさせて頂いたけれども、とうとう、不合格になった、と。
今日、私はちょうど久留米に行こうとしよりましたら、ある方が、ほんに私は、はあ、この人もほんに、まあ、安易に孫の入学試験のあれをお願いに来てあったたいと思う人なんですよ。あらっ、久しぶりに、はい、今日、私は浮羽高校の発表でございましたが見げ行きました。先生にお願いしとりましたばってん、落てとりましたち。言うならば、どうして下さるかと言わんばかりにですね、私に言われるんですよ。
はあ、ほんなこつ、そうでしたね。お宅お願いに見えとったですね。けれども、私はあん時に言うたでしょうが、おばあちゃん、貴女が一生懸命おすがりしてあげなさいて。北野から毎朝毎朝車が出ておるから、便乗させてもろうて、おばあちゃんが少し早起きでもしてから、はあ、お参りはしませんでしたばってんか、お願いしとったけん出くるじゃろうと思うちから、前ば通りますけんで、お礼に寄ったんじゃなくて、文句言いに寄ったといったような感じなんですよね。
うん、やはり、そんな気持ちのするのも、まあ、無理からんことだ、と。孫が可愛いんですよね。ある方、やはり、息子さんが試験を受けました。ところが、不合格でした。そのことに対してですね、もう、心からお礼を言われるんですね。わざわざお礼参拝してみえまして、本当におかげを頂きまして有り難うございました、と。そのことを通してです、本人も一生懸命、おすがり、信心が出けました。そのことによっては、親の私たちも本当に一生懸命おすがりが出けました。
けれども、出ける出けないは問題じゃございません。そのことを通して、信心が育てられた。ね。神様はどこにご神意、ご都合があるやら分からんのでございますから、今後ともどうぞよろしゅうおかげを頂きますようにという、それ。
ちょうど、栄四郎が中学生になって、ね、例えば、今日の送別会に迎えられた時のそれと同じようなものを感じます。もう、そのくらいなことは言い習わにゃ。いや、また思えなければ。教祖の神様は、難はみかげと、こう仰る。人間の見た目には、はあ、困ったこと、難儀なことのように見えるけれども、それは、もう、そのままおかげの塊だと、こういうこと。ね。
そこんところが、おかげをおかげと分からせてもらうから、お礼が言えるのであり、お礼参拝が出来るのであり、そのことを通して、信心が育てられたということは、いよいよ、ね、食べるとか食べないとか問題じゃない。その好意に報いるということが、本当だと言うわけなのである。
今日、久留米の霊祭の後のお説教の中にも、日に日に生きるが信心なり、教祖の御教えです。ね。死ぬる用意より生きる用意をせよという御教えの、まあ、新しい、今まで頂いたことのなかった面のご理解を頂きました。日に日に生きるが信心なり。
死ぬる用意より生きる用意をせよ、と。お道の信心はどこまでも、日に日に生きて行くという、そのことが、すでに信心なのだ。だからこそ、今日もお生かしのおかげを頂いておるということが有り難いのである。目が覚めたということが有り難いのである。ね。よし、頭が痛かっても腹痛かっても、ね、これは生きておる印なのだからと分からせてもらう。ね。熱があるのも、ね、それが冷たく冷えてしもうた時には人間な終えた時。目が覚めなかったという時には、もう、明日は火葬場行き。
目が覚めたそのことが有り難い。熱のあること事態が有り難い。腹がせきよるということは、生きておる印なのだから、お礼を申し上げなければならない。日に日に生きるが信心なのだ。ね。同時に、もうこの世では仕方がない。あの世でなっとん極楽に行かなければといったような後生を願うような信心ではなくて。ね、現世、この世で、真実この世は苦の世苦の世界と言われるような中にあって、このような中に有り難い心。いわゆる、難と見える中にあっても、難をみかげと分からせてもらえれる信心。
心の中に、そういう喜びの心を心に開かせてもらうこそ、その喜びがあの世にも繋がって行くのだというのが、お道の信心。日に日に生きるが信心であり、死ぬる用意より生きる用意をせよ、と。ね。日に日に生きるということは、どういうことであろうか。ね。これは、もう、ここだけは、はっきり言えること。人生の中に雨もありゃ嵐もある。ね。雨の日、お天気の日ある。この信心があっても同じこと。
信心しておるから、必ず、例えば、まあ、今日の高校試験なら高校試験でも、信心しておるから、お願いしておるから通ると限っていない。信心しておっても、落ちる人もありゃ、または、合格する人もある。降ってもおかげなら、照ってもおかげであると分からせて頂く。そこにご神意を悟らせて頂く。そして、そこにお礼の申し上げる、いわゆる、難はみかげとして頂けれる信心。
日に日に生きるが信心。その日に日に生きるが信心であると同時に、ね、死ぬる用意より生きる用意をせよ。ね。ということは、日に日にです、私どもはどのような場合にあっても生き抜かれる。ね。そのことを生かされる、生かして行けれる信心のけいこを日頃しておかなければならないということなんだ。ね。
そのことは、いわばはっきり言われるということはです、ね、降っても照ってもおかげであると分からせて頂けれる信心。いわゆる、難と普通では言うけれども、その難をみかげである、おかげであると分からせて頂いたら、もう、これは絶対のおかげが開けて来るということが言えます、そういう気持ちを開いたら。
これは、例えば、合楽18年間をふり返ってみれば一番分かるのです。ね。これだけの信心が出けておるのに、どうしてこのような事がというような場合でもです、それを、いいや、おかげよと、それがおかげよと、それをおかげと頂き抜かせて頂くところに、次にはなるほど、ああいうようなことのおかげであって、あれがおかげであったなあ、と後で分かる。しかも、それが、おかげの土台になって、また、輝かしい次のおかげになっておるということ。これだけは、絶対です。ね。
どういうような場合でも、信心してどうしてこのような事がというような受け方ではなくて。これは、神様のご都合に違いはない。ね。と、それをおかげとして頂けれる信心。ね。これが、死ぬる用意より生きる用意なんです。ね。どういう、例えば、降っても照っても、合格であっても不合格であっても、不合格をしておったことがおかげであったなあ、と分からせてもらうようなおかげがです、必ずこれには伴うて来ます。ね。ここんところを、私は一つ、本気で、ね、体験させてもらう、本気でそこんところを稽古して行く。
そこんところが、日に日に生きて行くということが信心だというような力強い信心をしておらんとです、自分の都合のよかことだけがおかげで、都合の悪いことはおかげ頂ききらじゃったというようなことになって来る。これではね、もう、次のおかげが、もう、そこで萎んでしまうです。
次に下さろうとしよるおかげが、もう、そこで挫折してしまうです。そして、いわゆる、いつまでもいつまでも堂々回りの同じところばかりをぐるぐるしとらなきゃならんようなおかげに終わってしまいます。日々信心のけいこをするのは、そういうおかげを頂かせて頂くためにという人もある。けれども、ここには信心のけいこに通うて来るという信心のけいこというのは、日に日に生きておることが、なるほど信心だなと分からせてもらい、どのような場合でも、それを、どっこいとおかげで受けさせてもらえれる信心の内容というかね、本当の。そういう風におかげが頂けて行きよるならば、貴方の信心はだんだん育って行きよるということになるのです。小学校から中学校と、進学させてもらう。なら、もう、そこには中学生らしい信心の内容が出来て行かなければならんのじゃなかろうか。そこには、言うことも、する事も、行うことも、ね、思うておることも、自ずと中学生らしいことが思えれる、言えれる、行われるところのおかげを頂いてこそ、私の信心が今育って行きよるなあ、ということが分かるのです。
信心が育たなければ、おかげになりません。ね。同時に、そのことを通して、ね、そのことを通して、例えば、ここで指導部の方達があちらこちらの共励会なんかにお出られてお話に行く、と。お話に行ってあげておるのじゃなくて、その会を通して、自分自身を育てられておるというように、育てられて行かなければ、信心を頂いておる値打ち値打ちがないのでございます。ね。
どうぞ一つ、信心が育って行き、同時に育てられて行くところのおかげを頂いて行かなきゃなりませんね。どうぞ。